こんにちは!
レポサドblog管理人のKAZUPAKAです。
僕のブログに遊びに来ていただきありがとうございます!
まず自己紹介とこのブログについてのお話をしたいと思います。
最後まで読んで頂けたら嬉しいです。
自己紹介
名前 | KAZUPAKA |
年齢 | 1979年生まれ |
出身 | 生まれも育ちも東京の東の端っこ |
家族 | 7個下のOKUさん、40個下の息子、42個下の娘の4人家族 |
趣味 | 海外旅行(元バックパッカー) バイク(夫婦で限定解除、今の愛車はスーパーカブ90) お酒(ビール・ウィスキー・テキーラ他なんでも) |
経歴 | 商業系大学を2年で中退 建築業を転々としバックパッカーに イベント系の鉄骨屋の会社に就職 コンサートの舞台を作る&組み立てる&動かす仕事(20年間)←今ここ |
目標 | 子供が大きくなる前に家族で海外旅行に行く |
レポサドblogとは⁈
レポサドblogのレポサドっていったい何なの?って思うよね
率直に言いますとレポサドというのはテキーラの熟成具合を指す言葉です。
テキーラ大好きだもんね(笑)
テキーラの熟成具合は主に3段階あります。
3段階ある中間のレポサド(Reposado)から名前を拝借しています。
簡単に言うとほんのり青臭いblogという意味だね!
ブログ管理人の生い立ち
僕の生い立ちを紹介するよ!
小・中学校時代
小さい頃は勉強は苦手でしたが体を動かすことは大好きでした。
小学4年生の時に母親に習い事を勧められ。
サッカーと野球どっちが良い?
サッカーかな
父親がサッカーをやっていたこともあり迷わずサッカーを選びました。
1か月くらい楽しくサッカーを習っていたのですが、なぜか変な濡れ衣を着せられ上級生からいじめられます。
それから通うのが嫌になり布団から出られなくなりました。
母親が何かを感じ取ったようですんなり辞めさせてくれたのです。
この時の母親の対応には今でも感謝しているよ
サッカーをやめた後に平日に通えるスイミングスクールに通うことにしました。
スクールに行った後のクタクタに疲れる感じがとても好きで水泳は小学校卒業するまで通います。
中学の時も野球部でありながら東京都の水泳の大会に出場するくらいのレベルまで行きましたね。
平泳ぎは自信あったよ
小学5年生の時、親が子供を迎えに来る防災訓練がありました。(土曜日)
その際、野球チームに所属している友達の親とうちの母親との会話の中で勝手に僕が野球チームに入ることにされてしまったのです。
少し納得がいかなかったのですが、仲のいい友達のいる野球チームなので渋々ですがその日から練習に参加することになりました。
それから中学3年まで必死に野球やってたね!
中学の時は3年間野球漬けでしたね。
朝練・夕練。
土日も休まずテスト期間以外毎日野球です。
僕たちの代では東京都の大会で準優勝という成績を残しました。
毎日泥んこにまみれて練習したもんな~
ちなみに勉強は…
授業はしっかり受けていましたが、家庭学習はほぼしません。
おかげで成績は学年でちょうど真ん中あたりでした。
高校時代
高校は大学付属の男子校に入学。
野球は続けるつもりはありませんでした。
なぜか中学の時に実力の限界を感じていたからです。
部活は何かやっておきたかったので少し興味のあったラグビー部に入ります。
このラグビー部が練習がほぼ無い弱小チーム。
部員も少なくラグビーはスタメン15人なので試合も出来るか出来ないかの状態。
半年ほどで辞めてしまいました。
人生初の帰宅部員だね
学校生活は最悪でした。
当時は体罰・暴力が黙認される時代だったのですが、僕の通ってる学校はその最前線。
なおかつ校内でしかも友人間での盗難が多発し人生初めての人間不信に。
学校に行くのが苦痛になりました。
部活を辞めた後、隣町の駅近くのファストフードのお店でアルバイトを始めます。
バイト先の雰囲気が気に入り結局大学時代までそこでアルバイトをすることになります。
学校生活がきつかった分居場所が見つかってよかったよね!
大学時代
高校が大学付属だったのでほとんど受験らしいことをせずに進学します。
受験で苦労を全くしていないのとそもそも勉強が好きではないのとで大学は好きな授業しか受けませんでした。
なので全然単位が取れず2年の時に留年が確定してしまいます。
留年してまで通い続ける気力がなかったので中退を決意しました。
両親には悪いことしたね
返す言葉がありません…
建築系現場仕事時代
大学を辞めて働こうと思い地元の怖ーい先輩の仕事を手伝う事に。
建築現場での仕事なのですが仕事の出来ない若造に対しての当たりは厳しく、身も心もボロボロになりました。
大学辞めてすぐに社会の厳しさを思い知らされたよね…
1年弱その先輩のところで働いていましたが、運よく仕事自体が無くなってしまい辞めることに。
その後また別の先輩の会社にお世話になることに。
そこは内装の仕事でした。
壁紙張るのは好きだったね
この会社にお世話になってから約1年後に父親の勤めている鉄骨屋の会社に魅力を感じ転職しました。
鉄骨屋の仕事は性に合っていたようでとても楽しく働いていました。
後輩もでき職場自体が楽しい雰囲気だと思っていたのですが、突然父親が社長に解雇されてしましました。
この時はショックすぎて何が何だかわからなかったよね
僕なりに考えたのですがどうしても父親を解雇した社長のことが許せず、翌朝電話で会社を辞める旨を伝えました。
バックパッカー時代
次の職場を探しているときに、大学の卒業旅行から帰ってきた友達と飲みに行くことに。
その友達は卒業旅行でタイ・カンボジアに行ってきたらしく、とても楽しかった様子でした。
そんな友達が僕に一人旅を勧めて来たのです。
日本から出たことのなかった僕は正直戸惑いましたが友達の押しに負け翌日パスポートを取りに行きました。
暇だったので行くと決めたら早く行動したくなります。
とにかく調べてパスポートが受け取れる予定の翌日の飛行機のチケットを取りタイのバンコクに飛びました。
この時の勢いは我ながら凄かったね
人生初の外国のイミグレーションで15分ほど足止めをくったのを今でも覚えています。
バンコクでの宿泊先を決めずに行ったから
入国カードの滞在先が記入できなくて止められたんだよね~
タイ・カンボジア・ラオスを2か月かけて旅行しました。
帰国する時には、すでに次の旅行を計画するほど海外旅行にハマっていましたね。
それから半年ほどバイトしながら計画をたて再び日本を離れました。
そしてタイ・ラオス・中国・インド・ネパール・パキスタンを8か月で周遊しました。
イベント系鉄骨屋時代
8か月の旅行から帰国すると、前の職場のお客さんの会社で働いていた父親から仕事のお誘いが。
手っ取り早く働きたかったので快諾し働くことに。
前職は建築専門の鉄骨屋だったのですが、そこにイベント系の仕事を投げていた会社が自分たちで工場をたち上げるとのことでそこに参加させてもらうことになりました。
そこからイベント系専門の鉄骨屋になりました。
最初は作る専門だったのですが現場にも出るようになり、コンサートなどの舞台の設営にも携わるように。
次第に舞台の設営の仕事の割合が増えコンサートツアーの合間に作る仕事をするという生活になりました。
かれこれ20年経つ今もこの仕事をしているよ!
そして同業の素敵な女性に出会ってその人がOKUさんだよ
結婚をし子供が生まれてからは家族のことを考え出張を断っているので、今は作る仕事の一択です。
生い立ちのまとめ
以上が僕の生い立ちになります。
長々と読んでいただきありがとうございます。
こんな人に読んでほしい!
散々好き勝手な人生を送ってきましたが37歳で結婚し、39歳で親になり、42歳でもう一人家族が増えました。
子供が生まれた時期とパンデミックが重なり職業柄時間はたっぷりあるけど収入が下がるという状態になりました。
先々の不安はぬぐい切れませんがそれ以上に僕のこれからの人生は希望に満ち溢れています。
僕はある一定の人たち対してブログで発信しているわけではありません。
それは、色々な方々に向けて読んでもらえるようなブログにしたいからです。
ただ、あえて言うとすると僕と同じような40歳前後で家族を持ち家事・育児・仕事・副業に奮闘している男性に共感を得られるような記事を書きたいなと思っています。
未熟者の少し青臭いブログですが遊びに来ていただけるととっても嬉しいです。
読者の方々の目線を考慮し、共感を得られるようなブログにしていきたいと思います。
お付き合いいただきありがとうございます。